御輿 MIKOSHI

「国分にも独自のまつりを」という想いから生まれ


引き継いできた迫力と感動

歴史

約1トンの巨大御輿を、締め込み・法被姿の男たちが
往復約150メートル先のゴールを目指しタイムを競う姿に、会場は大歓声に包まれる。
霧島国分夏まつりのラストを締めくくる「国分寺御輿競争」。
例年企業や自衛隊、団体など約10チームが参加する。
まつりの「顔」として楽しみにされている御輿。始まったきっかけは「若者たちの熱い思い」だった。

国分夏まつり(当時の名称)で御輿が始まったのは第20回(1994年)。
夏まつりは二日間開催され、一日目は総踊り、二日目は芸能人などを呼んでステージでイベントを催していた。
集客効果があり、会場も盛り上がる。しかし、その場限りの盛り上がりで地元の夏まつりとしての特徴がないことに違和感があった。

国分夏まつりの様子(1987年)

「どうにかして故郷のまつりを盛り上げたい、地元独自のまつりを作りたい。」

まつりを主管していた商工会青年部(現在の霧島商工会議所青年部)の中で検討会を作った。
その中に居た福岡の大学を出たメンバーの「博多の祇園山笠はすごい」と言う声がきっかけで、現地へ見に行った。
装飾された巨大御輿。それを男たちが担いで街中を回る勇壮な姿に感動し、夏まつりに御輿を取り入れることに決めた。

当初は御輿や上に載せる人形の作り方が分からないため、博多へ何度も足を運び、
祇園山笠のみこしを隅々まで撮影し、それを基にミニチュアを作り、とにかく研究をした。
夜中まで作業が続く日々、悪戦苦闘の連続。
ただ「とにかくみんなに喜んでもらいたい」という思いで苦労を乗り越え、
国分独自の御輿を作り上げることができた。

20余年前には御輿を発展させ、夏まつりをサポートするために国分寺神輿会という組織も立ち上がった。
御輿を立ち上げ、御輿競争を取り入れたメンバー、青年部OBも所属する。

「独自のまつりを作りたい。とにかく喜んでもらいたい。」
その想いは現在まで引き継がれ、毎年その迫力で夏まつりを盛り上げている。

国分寺御輿と舞鶴御輿

霧島国分夏まつりの代名詞ともいえる御輿。
その発端は国分の御輿は国分のシンボルである大隅国分寺跡と、全国にその名を轟かせた島津義久公にちなんで「国分寺御輿」と命名されたことにある。

大隅国分寺跡

大隅国分寺跡

商工会議所青年部と国分寺神輿会が中心となり、初陣・龍伯を冠した2基の国分寺御輿と、
舞鶴を冠した1基のみこしを作る。
それぞれ鹿児島に所縁のある歴史上の人物を題材とした人形を御輿に乗せて祀り上げる。

龍伯 西郷隆盛(2018年)

御輿が立ち上がった際に作られたのが龍伯。
現在の国分小学校にあった舞鶴城の城主である島津義久公が出家した後の法号が龍伯であったことに由来する。

龍伯 島津義久(2019年)

島津義久は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津家第十六代の当主。天文二年(1533年)二月九日島津貴久の嫡男として伊作城にうまれ幼名は「虎寿丸」と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だったが祖父の島津忠良は「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を似て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並び無く、家久は軍法戦術に妙をえたり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待をおいていた。
天文二十三年薩摩・大隅衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす、以後、戦に従事し、九州平定を目前とした。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉率いる十万余人が小倉に上陸し薩摩を目指し進軍、退陣を余儀なくされ大友軍に追撃されながら退却した。島津の本陣に豊臣軍が迫ると、城を開城して降伏した。後に剃髪し『龍伯』号す。時に義久五十三歳。
文禄四年(1595年)秀吉により強制的に隠居させられた龍伯は大隅国の近くに港があるこの地に屋形を築いた。これが富隈城である。この地に移転した事は不本意なことであったらしいが僅かな在城期間に城下の浜之市港を整備して商人を招き江戸時代には坊津、山川等と並ぶ藩内では栄えた港の一つとなった。
慶長九年(1604年)隣の国分に国分城を新たに築いて移り、その際、龍伯の命を受けた宮内少輔忠増は京都に赴き陰陽師士として高名な加茂在信を訪ね、移城地の吉凶を問い鎮地鎮宅の秘法により、安泰を祈った。国分城に移った龍伯は、寒村であった場所に京都風の碁盤の目を敷き、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を整備した。又、江戸時代初期に「たばこ」の生産を奨励、貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった薩摩藩において、その収入は貴重な藩の収入源となった。城自体はそれまでの島津氏の城にありがちな中世屋形形式であったが裏山を後詰めの城「隼人城」(城山)としたため富隈城より防衛機能に優れた場所になっている。
薩摩国、大隅国の境に位置するという絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は城下の測量まで行ったが、斉彬の死により頓挫し実行されなかった。
慶長十六年(1611年)一月二十一日、乱世に名を馳せた龍伯は国分城にて病死。国分城(舞鶴城)に居城して僅か七年の事であった。享年七十九歳

初陣 大久保利通(2018年)

国分寺御輿の先陣を切るという成り立ちで、
2基目の初陣が制作された。

初陣 島津義弘(2019年)

舞鶴 島津久光(2018年)

その後、御輿の文化を地元の子供達にも広めたいという想いで、中学生が担ぐためにやや小型の舞鶴御輿が誕生した。

舞鶴 島津豊久(2019年)

島津 豊久は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。島津家久の息子。
「島津の退き口」慶長五年年関ヶ原の戦いが勃発すると、伯父の義弘と共に西軍として参陣した。慶長五年九月に、義弘は豊久を石田三成本陣に派遣し、赤坂在陣中の関東勢への夜討ちを提案するが、自軍は大群なので日中広野で勝負を決すべしとして、三成は提案を却下されたと言われている。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加しなかったと言われている。その夜、関ヶ原に陣替えし、九月十五日の夜明け前に、雨天で濃霧の中、石田陣から一町程隔てて布陣。それから一町程隔てた地に義弘も布陣している。豊久の備えには長寿院盛淳が来て、馬上で暇乞いをしたが「今日は味方弱候得は、今日の鑓は突けましきぞ」と豊久は答え、互いに笑って別れている。石田三成の家臣である八十島助左衛門が使者として助勢を要請に来た際は、下馬せずに馬上から申し出た事に、家臣たちは「尾籠」だと悪口を言い、使者の態度に激怒した豊久も「今日の儀は面々手柄次第に可相働候御方も共通に御心得候得」と怒鳴り返して追い返したと伝えられている。乱戦の最中義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公の一身にかかれり」と述べ撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で伊勢街道方面に撤退することにした。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出した。井伊直政勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり「捨て奸・すてがまり」となって、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら十三騎と大軍の中へ駆け入って討死した。薩藩旧記雑録には「鉄砲で井伊直政を落馬させ東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を九㎞近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承もあり同寺には墓が現存している。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのである。ただし、島津方では豊久討ち死にの確証を得てなかったらしく、島津義弘は押川公近へ三虚空蔵参りと称させて豊久の安否を探らせ、公近は諸国を三ヶ年遍歴している。豊久の法名は『天岑昌運』。ちなみに、岐阜市歴史博物館蔵の『関ヶ原合戦図屏風』には馬上で采配を振る豊久の姿も描かれている。関ヶ原の戦いが勃発すると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。慶長5年(1600年)9月14日に、義弘は豊久を石田三成本陣に派遣し、赤坂在陣中の関東勢への夜討ちを提案するが、自軍は大群なので日中広野で勝負を決すべしとして、三成は提案を却下されたと言われている。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加しなかったといわれていたが、この逸話は『落穂集』という二次的な編纂物に書かれたものであり、また島津方の史料にも夜討ちに関する記事がほとんど見えないことから、史実だと断じるわけにはいかない[6][注釈 4]。その夜、関ヶ原に陣替えし、9月15日の夜明け前に、雨天で濃霧の中、石田陣から1町程隔てて布陣。それから1町程隔てた地に義弘も布陣している。豊久の備えには長寿院盛淳が来て、馬上で暇乞いをしたが、「今日は味方弱候得は、今日の鑓は突けましきぞ」と豊久は答え、互いに笑って別れている。石田三成の家臣である八十島助左衛門が使者として助勢を要請に来た際は、下馬せずに馬上から申し出た事に、家臣たちは「尾籠」だと悪口を言い、使者の態度に激怒した豊久も「今日の儀は面々手柄次第に可相働候、御方も共通に御心得候得」と怒鳴り返して追い返したと伝えられている。関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)乱戦の最中、義弘を一度見失った豊久は、涙を流しながら義弘はどうしているかと心配し、義弘とその後合流できたと伝えられている。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ[3][7]、「島津家の存在は義弘公にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ[8]撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で伊勢街道方面に撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出した。井伊直政勢が迫り、鉄砲を一度放って、あとは乱戦。豊久は義弘の身代わり(捨て奸)となって、付き従う中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫ら13騎と大軍の中へ駆け入って討死した[3]。薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。島津豊久、大量に出血」という内容が記されている[9]。一説によると、豊久は重傷を負いながらも義弘を9km近く追いかけ、瑠璃光寺の住職たちや村長が介抱したが、上石津の樫原あたりで死亡し、荼毘に付されて近くの瑠璃光寺に埋葬されたという伝承もあり、同寺には墓が現存している[10]。また、かなり早い段階で豊久の馬が、鞍に血溜まりがあり主を失った状態で見つかったとも伝えられている。いずれにせよこの豊久らの決死の活躍で、義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった[11]。ただし、島津方では豊久討ち死にの確証を得てなかったらしく、島津義弘は押川公近へ三虚空蔵参りと称させて豊久の安否を探らせ[12]、公近は諸国を3ヶ年遍歴している[3]。豊久の法名は『天岑昌運』。ちなみに、岐阜市歴史博物館蔵の『関ヶ原合戦図屏風』には馬上で采配を振る豊久の姿も描かれている。後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれている。
関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で三百人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。この撤退劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。 しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。このとき島津軍は捨て奸(すてがまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをしそれが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓、こがえしのごほんやり」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで七十日間滞在し無事帰国した。無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。その際に義弘は摂津国住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。生きて薩摩に戻ったのは、三百人のうちわずか八十数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

Production 御輿制作の流れ

御輿は土台、人形、それを彩る飾り付けで構成される。

木材で骨格を組み、竹を輪っか状にして
全身の骨組みを組んでいく。

骨組みに新聞紙を貼っていき、
肉付きを表現していく。

新聞紙で肉体の形状を作り、
下地となる白い紙を貼り付けていく。

顔作りは経験が必要な作業。
粘土で顔の形や凹凸を作る。

顔に絵の具で着色し
魂を吹き込んでいく。

鎧やかみなりなど、
人形が装う備品も同時に制作する。

御輿を彩る岩や由来の品など
多くの装飾品作りには人手を要する

御輿の麻縄の締め直し。
地元の団体や小中学生にも触れてもらう。

土台に人形や装飾品を乗せ
御輿が完成する。

五通り山見せ

子どもみこし

御輿は夏まつり二日目のメインとなる。日中には様々な御輿が霧島市国分の5つの通りを練り歩く山見せが行われる。
まずは地元の保育園・幼稚園・スポーツ少年団が手作りのみこしを担ぐ「こどもみこし」。
こどもたちが「わっしょい」の掛け声とともに元気いっぱい御輿を担ぐ姿に会場が沸く。

子どもみこし参加団体(2019年)
  • 鹿児島第一幼稚園
  • 認定こども園カトリック国分幼稚園
  • あかつき認定こども園(誓いの言葉)
  • あおば幼稚園
  • クローバー保育園
  • 認定こども園 みつぎ童夢園
  • 富隈幼稚園PTA
  • 国分南軟式野球スポーツ少年団
  • 青葉ジュニアソフトテニススポーツ少年団
  • 国分バレーボールスポーツ少年団
  • 国分ジュニア陸上スポーツ少年団
  • 天降川小学校6年
  • シャトル国分スポーツ少年団
  • 国分小軟式野球スポーツ少年団
  • 上小川サッカースポーツ少年団

元気みこし

霧島市国分の5つの小学校がそれぞれ保有する神輿を担ぐ「元気みこし」。
小学校高学年の生徒達が初々しくも力強く担ぎ上げる。

元気みこし参加団体(2019年)
  • 青葉小学校(誓いの言葉)
  • 国分小学校
  • 国分西小学校
  • 国分南小学校
  • 国分北小学校

舞鶴御輿

霧島市にある中学校の生徒達による「舞鶴御輿」。その年の代表生徒が誓いの言葉を読み上げ、御輿に台上がりする。
子どもみこしと元気みこしは子供達のはつらつとした姿から、中学生らしい躍動感が溢れる。

舞鶴御輿参加団体(2019年)
  • 国分中学校(誓いの言葉)
  • 国分南中学校
  • 舞鶴中学校

国分寺御輿

最後を締めくくるのは初陣・龍伯を冠する2体の「国分寺御輿」が登場。
その巨大で雄大な姿は圧巻。台上がりするのは霧島市長や霧島商工会議所会頭と言った霧島市を担う方々。
夏まつりに大きく花を添える。

国分寺御輿参加団体(2019年)
  • 第12普通科連隊第1中隊
  • 第12普通科連隊第2中隊・重迫中隊
  • 霧島市ラグビー協会
  • 霧島市役所職員互助会
  • 国分寺神輿会
  • 第12普通科連隊第3中隊
  • 第二普通科連隊第本部管理中隊
  • 京セラ(株)鹿児島国分工場
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国分寺御輿競争

夏まつりのクライマックスとなるのが国分寺御輿競争。
夏まつりステージ前から市民会館前付近の折り返し地点を引き返す150mのタイムレース。
締め込み姿の男達の見せ場であり、最高潮の盛り上がりを見せる。

巻頭言

巻頭言

巻頭言で国分寺御輿に乗る人形の由来を読み上げ、
御輿競争に臨む担ぎ手達への「いざ担がんかな!」の
荒々しい一声で気合いが入る。

参加する団体の名前が順番に読み上げられてスタート位置に付き、「スタート一分前」と告げられてカウントダウンが始まると緊張感が高まる。

大太鼓の合図とともに動き出した大きな御輿の迫力と気合いに息を飲んだ直後には、
必死の形相で担ぐ男達に降り注ぐ勢い水と見物人達の熱い声援。
わずか一分垂らすのドラマに全身全霊をかける男達の真剣な戦いに、周囲の雰囲気は一気に盛り上がる。

走り終えた疲労感以上に達成感に満ち溢れる担ぎ手達。その表情はとてもすがすがしく見える。

競争の結果発表が告げられ、優勝した団体にステージ上で優勝旗が手渡されて
その場にいる人たちから健闘が称賛される。

三本締めで御輿競争の終了が告げられた瞬間、ステージの背後から一気に花火が上がる。
音楽とともに夏まつりの夜空が複数の光に彩られる姿は圧巻。
そうしてその年の夏まつりが締めくくられる。

国分寺御輿競争参加団体(2019年)
  • 第12普通科連隊第1中隊
  • 霧島商工会議所青年部連合
  • 第12普通科連隊第2中隊・重迫中隊
  • 霧島市ラグビー協会
  • 霧島市役所職員互助会
  • 国分寺神輿会
  • 第12普通科連隊第3中隊
  • 第二普通科連隊第本部管理中隊
  • 京セラ(株)鹿児島国分工場